雨天日誌

のんびりひとりごと。

11月30日、5頁目

芸術は人の心を豊かにもするし、弱らせることもする。答えが白と黒で割り切れない、むしろグレーしか存在しないのだから万人に受け入れられるものがなくて当然といえば当然である。

父は米津玄師のlemonという曲が好きだが所々に入っている効果音(何と表現すれば適切か分からない)が苦手だと言った。ボーカロイドPのハチという名前で活動していた時から知っている身としては、その効果音は名残が感じられる点のひとつだが、彼の生み出した曲の歴史によってあとから生み出された曲の良し悪しがジャッジされるのは違うので仕方がないか、とも思う。そもそも1曲1曲作った気分も作った時も違う上、作者本人も成長している。前が、とか今が、と作者の前で語るのは無粋なのだ。

 

よく有名な画家の半生を綴っているものを見る。彼らが何をテーマに掲げ、何に重きを置いて描いたかを知るのは良いことだと思うが、前の方が良かったとか、テイストが変わった時に彼は病んでしまったから下手になったのだとか、あの事故が闇をとか語るのはどうなのかと思う。病んでいようと事故があろうと彼はそれでも筆をとる事をやめなかったという事実があっただけなのだ。勿論これは事故の前に描かれたこの作品は好きだが事故後のこの作品は苦手という感情を否定している訳ではない。ひとつひとつの作品と向き合っているならそれで良いと私は考えている。

 

2枚目のCD、エルマの日記帳を読んで私がエルマが好きだったのは彼女がエイミー自身を本当に愛していたからだった。彼女は彼の為なら全てを捨てても構わないといったようなことを日記に記していたと思う(細かい文章は忘れた)。大事なのはこの文章ではなく、彼女の行動だった。

 

彼女は彼の音楽について、好きな彼が作る音楽だからと全てを肯定する事もしなかった。そんなに辛くなるなら音楽から逃げても良い、と言った気持ちは日記に記しているが、実際に彼から音楽を取り上げる事もしなかった。ただ黙って後ろをついて彼の邪魔をしなかったのだ。愛していたからこそ、だと思う。何より、彼女が音楽を始めた理由が彼の意思を継いでなんて気持ちでない事が彼の音楽に対する向き合い方を侮辱していなくて良かった。自分が音楽に興味を持ったから音楽を始め、その為にまずは彼の書いたものを(私の認識が間違っていなければ、それが1枚目のCDで手紙と一緒に送られた歌詞に音楽がついている理由らしい)、といった事が書いてあった。きっかけが何からスタートしようと構わないが、自分主体からスタートしてこそだと思うのでその点においても好ましかった。

 

エルマ自身が書いた歌詞は剥き出しの気持ちが乗せてあるものが多かった。2枚目のCD発売の1日前(私は詳しく知らないのだがフラゲというやつです)にCDを私にヨルシカを勧めてくれた彼が購入し持ってきたので、一緒に日記帳を読みながら聴いたが彼は泣いていた。彼は感受性が豊かで感情移入しやすいと言っていたが、そのぐらいエルマの書いたものは直接相手に訴えているものがあった。彼の口調を真似した、とあったが気持ちの表現方法までは真似していなかった。彼女が今後どんな音楽活動をしていくのか、実在していたら本当に楽しみにしていたと思う。今回はエイミーが作った曲に対して対になるようなものが多かったが、彼女がエイミーという存在から独立して作り上げた音楽がどんな形になるのか興味が湧いたからだ。

 

私はこの人の作った物だから全て素晴らしいとか全て駄作だという考え方がとても嫌いだ。自分の苦手な人であろうと、此奴がこれ作ったのか…と感心する作品もある(人間的には本当に嫌いだけど作品はむかつくほど好きなものが多いんだよな、という人もいるし人間的には好きだけど私にとってはつまらないものしか作らないな、という人もいる。とても複雑な気持ちだ)。だから、有名アーティストの考え方のツイートに流石○○さん!と賛辞ばかり送っている人を見ると何だかなぁと思う。中身を見ても流石でも何でもない。そんな考え方もあるのか、程度の事で騒いで何が楽しいんだろうか。政治家の意見も全て鵜呑みなのか、少しでも否定的な事を言った人に中身に対して何も言わず、「○○先生に楯突くとは」なんて言葉で返しているのをリアルにTwitterで見かけたときには笑ってしまった。その○○先生は全知全能の神か何かなのかい。

 

私はヨルシカのこのCD2枚について、形態が初回限定版だけとはいえ手紙だったり日記帳だった事、内容が自分が経験した事に触れるような物だったから刺激的に感じたし、終わり方も上に書いたような意味で好きだった。全てひっくるめて良い作品だと思う。ただ、だからと言ってこれを皆に薦めようとは思って書いていない。私が衝撃的なものに出会った、という意味で書いている。気になった方だけ調べてみて欲しいのだ。あともうひとつ、ここまでつらつらと書いているが私はヨルシカのファンではない(あくまでも好きな系統の曲が多いので聴いている割合が高いというだけの所謂ニワカという存在だ。全ての曲を知っているわけでもない。考察が好きな私に、彼の曲は考察点が多いからと薦めて来る人もいたが、あえて考察したいが為に飛び込もうとは思っていない。気になった時に聴きたいと思っている)。なので解釈が間違っている、とか前作のこの曲も結びつけて考えると、といった意見は要らない。ただ私はこの作品をこう捉えたから、好きと言っているだけなのだ。

 

2日連続で書いた頁は長くなってしまった。

次は文字数を気にするようにしたいと思う。

11月29日、4頁目

寒い。ただひたすらに寒い。

空気が凍って細かいトゲにでも覆われてしまったのかと言うぐらい空気が痛い。

夏に突然のうだる様な暑さが来る時も、冬の突然の凍てつく寒さが来る時も、一つ前の季節に取り残されていたのかと置いてけぼりを食らった気持ちになる。誰がこんな季節に追いついて行くことが出来るのか。

 

 

ヨルシカの最近出たCDについて語ると言ってしまったが、厳密には語る、と言った大層なことは私には出来ない。だから思ったことをそのまま書き並べようと思う。

 

個人的に、2枚目のCDがある事によって1枚目のCDの主役(主役という言葉は実は適切ではなく、視点といった方が正しいのかもしれない)の男の子、エイミーの人間さが伝わってきた。きっと飾るタイプなのだろう、彼の書いた手紙は難しい言葉や本からの引用が多く、彼自身の元々持っているであろう感情がくるまって言葉の裏に隠れてしまっている様に感じた。それに対して2枚目のCDの主役の女の子、エルマは感情そのままを日記に書いているのが所々存在した。よく日記には、彼の後ろを黙ってついていくと言った表現があったがあくまでも彼に対して黙っていたのであって彼女自身は色々と考えていたように思えた。(そこまでは意識していないのかもしれないが、1枚目のCDに収録されている楽曲のpvに出てくるエルマは大人しい印象だ。しかし2枚目のCDが発売される前、先行して発表された楽曲のpvの女の子が気の強い、芯のある印象が強かった。だから1枚目のpvの女の子はエルマと同一人物じゃないのでは、と思ってしまった。これがエイミーから見たエルマと本来のエルマの描きわけだったら本当に凄いと思う)私はどちらかと言えば感情で動く方なのでエルマに共感をする事が多かった。

 

エイミーに共感した点は芸術をやった事のある人なら誰でも一度は持つであろう疑問、芸術は他人から評価されるように作っても良いのか、評価されなくても自分のセンスを信じて作っていれば評価されるものなのか、そもそも評価が必要なのかといったところだ。

中学から大学まで、私は美術に重きを置いてきた。中学、高校までは努力すれば絵はどんどん上達しデザインは考えれば考えるほどあとからみても納得のいく作品になった。大学は自分の好きな水彩絵具を用いた描画方法に直結する学科がなかった(日本画がそうだと言う人が多かったが断じて違う。私は水によって溶ける絵具の感触が好きで、それは膠海苔を使用して描く感触とは全く異なるものだった。言ってしまえば油絵に近いものでただ描くモチーフが写実的で似ていただけな話だ。因みに、水彩画についてちゃんと学ぶにはイギリス等に留学する必要がある事を聞いたが私には留学するお金も日常生活に困らないほどの英語のスキルもなかった)ので直接キャンバスに描くというスタイルから離れたテキスタイルを学んだ。

 

大学での制作活動は辛かった。頑張らなくても一捻りで素晴らしいアイディアを出してしまうような学生もいれば何故ここに来たんだと文句をつけたくなるくらい不真面目で美術にやる気のない学生もいた。他人は他人、自分は自分、と思っていても後者の人と同じ評価がつけられれば落ち込んだし、自身で納得した作品を仕上げてもつまらないだとか否定的な言葉を投げてくる教員に苦しめられたりもした。また、大学の教員は自らが現役の芸術家という方も多く自分の美意識と外れたというだけで良い作品でも一言も褒めずに貶す事もあった。

 

先生に気に入られる作品を作ればもちろん成績も上がる。成績が上がって実績があればその先にある就職活動も有利になる。でも、大学に来て自分の美意識を高めなくて良いのか。かと言って、高めたところで自分は芸術だけで生活していけるのか。そんな事を傍に考えながら制作をして、どれだけ考えてもアイディア出しの時点でOKの出ない課題もあり時間ばかりが過ぎていく時もあった。何が正解で何が不正解なのか分からずにもがき続けて息苦しい日々の方が多かった。特に大学の集大成である卒業制作は何度も挫折して疲弊して、最後はここまで通わせてくれた親や不真面目な学生に負けたくないという意地から無理矢理作り上げた。大学生活で最も出来が悪かったと思う。あんな駄作、卒業するに値しないと今でも思うし当時でも思った。その作品で卒業したのだからこれ以上惨めなことはないだろう。

結局、私は芸術を役立てる道には進まなかった。全く活かしてない訳でもなく、即戦力として役立てるテキスタイルの知識を活かした道にはしたが。筆をとることも、自らデザインをおこすことも今はしていない。

 

長くなってしまったが、そんな時代を直近に過ごしていたものだから彼の考えも理解出来た。彼は現実に存在していない分私ほど醜くもないし才能もある。存在したとしても才能はあるのだから同じ括りにしたら失礼だと思うけれど。

 

勢いで書き殴ってしまったものだから量がかさんでしまった。いつまで続くのかと思うだろうが、多分次の内容もこれに引き続くと思う。

出来損ないの小説書きのアイディアノートのような酷い有様だが、気になる方は読んでくれると嬉しい。

 

最近少しずつではあるが、閲覧してくれる方がちらほらいらっしゃって驚いている。立ち寄っていただきありがとうございます。

 

11月27日、3頁目

ここ数年、特別に入れ込んだアーティストもいなかったし学生の時は散々聴いていたボーカロイドの曲も新曲を追わなくなっていたので新しい曲に触れる機会がなくなっていた。そんな時にYouTubeのオススメに表示されて聴いて良いなぁと思ったのがヨルシカの「ただ君に晴れ」(https://youtu.be/-VKIqrvVOpo)だったのだが、Twitterのフォロワーさんにヨルシカが大好きな方がいて、呟いたところオススメされ少し聴いてみようと思った、のが久々にアーティストのCDを買った大元のきっかけだ。

 

ヨルシカ。2人組なのだがナブナさんの方はボーカロイドでも曲を出していたので名前を知っていた。出てきたのは私がボーカロイドを新しい曲が出ても聴かなくなるようなあとの方だったのだが、彼の癖のある音楽はどこか耳に残って何度もリピートして聴いていたのを覚えている。ボーカロイドでの調弦が特徴的だったので、女性のシンガーさんと組んでやるということが個人的には少し意外だった。

 

前置きが長くなったのだが、彼のCDで初めて買ったのが最近の「だから僕は音楽を辞めた」「エルマ」だ。どちらも初回限定版なので手紙や日記帳がセットになっている。特に「エルマ」についてはCDがおまけなんじゃないかと思ってしまうほど日記帳の隅にこじんまりと存在していた。

 

初めて買った彼のCD、そして久々に買ったCD。いろんな意味で中身の濃いものだった。ここで語ると長くなるので次書く時にしようと思うが、この2つのCDに入っている音楽はそれまでの一度聴いて良かった、好みだから何度も再生しよう、カラオケで歌ってみたいから何度も聴いて練習しよう、そんな気持ちで収まる音楽じゃなかったのだ。

 

 

11月24日、2頁目

f:id:yamacototo:20191124160257j:plain


友達に言われるがまま近所の公園まで散歩に出かけた。駅からは少し距離のある場所で、アクセスしやすいかと言われたら少し微妙なところではあるが少し大きなその公園は小さな子どもを連れた家族連れの方や高齢の方が座って談笑していたりと賑わっていた。


週末は家族でドライブやお買い物に行く用事や、友達に誘われて何かを買いにショッピングモールに出かけると言ったお誘いがない限り私は滅多に外に出ることはなかった。用もなく外を出歩く、と言った気持ちにはなれなかったのだ。


ゆっくりと歩きながら周りの人を見て、ちゃんと皆呼吸しているんだなぁとぼんやり感じた。そして自分はその呼吸すらちゃんと出来ていないんだな、とも感じた。


外に出たのはたった1,2時間のことだったが今は時の流れがゆったりと感じられる。


今日は少し呼吸することが出来ている。


11月22日、1頁目

好きなことといえば、何でもないようなどうでも良いようなことをぼんやりと考えていたり、ちょっと気になったことについてひたすら考えたり。とにかく考えることが好きで、でもそれはどうしても自分の中で完結して外に出て行かないようなものばかりだ。


社会人になって趣味のひとつでもあれば満喫できると思ったが、私にはこれと言って人に披露できるだけの物はなかったし、その分皆と交流して遊んで時間を潰す、ということも出来ず「ただ仕事行って、帰って、寝て、起きて、また仕事に行く」の繰り返しが日常となってしまった。


これじゃあいけない、そう思っても考えているのは頭だけ、今から新しい趣味を始める気力も残っていなかった。


じゃあこのブログは、というと、そんな私が思いついたタイミングで書き始めているもの、

ただ考えたことを外に出すだけ

の場所だ。




要するに息詰まっているのだ、生活に。日々に。人生に。




今の時代、TwitterInstagramFacebookでも同じような投稿が出来る。

それでもブログという形式を選んだのは、私がネットで最初に見ていたものがブログだったからだ。

匿名性がそこそこあって、文字の量も制限されない。勝手に人のTLに出てきて邪魔に思われることがない。でも、確かに片隅に存在している。


私は、自分という存在をあまり認識して欲しくないという気持ちが強い。そして同じくらいに生きているなら少しでも生きた証を残しておきたい、という気持ちも強い。


この頁はその悪あがきとも、きっかけともなる頁だ。

書きたいときに書き殴って、思ったときに思ったことを並べる。

それだけのスペースだ。